放棄してもいいの?
久々に要約筆記の話題です。まあ、考えたものではなく、頭に思い浮かんだものですが。
要約筆記は日本語で話されたものを、書いたり、パソコンで入力したりして、文字にしていくもの。もちろん、すべてのしゃべりを文字にすることはできないから、要約なり省略なりをしていく。それはいい。
昨今「通訳としての要約筆記」ということが言われている。別にこれも反対するつもりはない。むしろ必要。
でも、通訳として、というとき、どうしても「意味を伝えるのが第一」といわれているような気がする。でもそうなのかな?それっていいのかな?と思う。
通訳ということを主にすると確かに意味を伝えるというのはその通りだと思う。でも、英語を日本語にしたり、日本語を手話にしたりするのと違って日本語を日本語にするのである。話し言葉と書き言葉という違いはあるが、基本的に同じ文化をベースとした言語に変換しているのである。(手話の場合は、手話というものの後ろにろう者の文化があると思う。現に、日本手話というのがあるし)
だとすれば、表現をそのまま伝えられる、という力は要約筆記に与えられた一つの大きな力だと思う。要約筆記と異言語間の通訳を分けているのは「表現をそのまま伝えられる力をもっているかどうかでは?」とも思えるのだ。
当り前のことだが、話には「意味を伝えたい場面」と「コトバを伝えたい場面」が存在している。ある人の話の中で2つの場面が入れ替わり立ち代り顔を出している。通訳だから、意味を伝えることに集中する、というのは一つの方法だと思うが、それだけ、というのは抵抗がある。
というか、コトバを伝える力を放棄したら、要約筆記は自らその存在価値を否定することになるのではないだろうか?とも思える。
どうなんでしょうか?


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