要約筆記

2009年1月28日 (水)

放棄してもいいの?

久々に要約筆記の話題です。まあ、考えたものではなく、頭に思い浮かんだものですが。

要約筆記は日本語で話されたものを、書いたり、パソコンで入力したりして、文字にしていくもの。もちろん、すべてのしゃべりを文字にすることはできないから、要約なり省略なりをしていく。それはいい。

昨今「通訳としての要約筆記」ということが言われている。別にこれも反対するつもりはない。むしろ必要。

でも、通訳として、というとき、どうしても「意味を伝えるのが第一」といわれているような気がする。でもそうなのかな?それっていいのかな?と思う。

通訳ということを主にすると確かに意味を伝えるというのはその通りだと思う。でも、英語を日本語にしたり、日本語を手話にしたりするのと違って日本語を日本語にするのである。話し言葉と書き言葉という違いはあるが、基本的に同じ文化をベースとした言語に変換しているのである。(手話の場合は、手話というものの後ろにろう者の文化があると思う。現に、日本手話というのがあるし)

だとすれば、表現をそのまま伝えられる、という力は要約筆記に与えられた一つの大きな力だと思う。要約筆記と異言語間の通訳を分けているのは「表現をそのまま伝えられる力をもっているかどうかでは?」とも思えるのだ。

当り前のことだが、話には「意味を伝えたい場面」と「コトバを伝えたい場面」が存在している。ある人の話の中で2つの場面が入れ替わり立ち代り顔を出している。通訳だから、意味を伝えることに集中する、というのは一つの方法だと思うが、それだけ、というのは抵抗がある。

というか、コトバを伝える力を放棄したら、要約筆記は自らその存在価値を否定することになるのではないだろうか?とも思える。

どうなんでしょうか?

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2009年1月22日 (木)

耳代わりではなかったのか?

最近、ふと思ったことがある。

僕が要約筆記を始めた頃、要約筆記は、難聴者にとって耳代わりである、と言われていた。なるほど、音声は聞こえない(聞こえにくい)から、音声を文字にして伝えるのだな、と素直に受け入れられた。

そして現在、要約筆記は通訳であると叫ばれている。もちろん、通訳としての側面は昔から変わらずもっているし、僕は否定するつもりもない。

ただ、通訳だから意味を伝えればよい、要約をしなければならない、といわれると首をひねってしまう。

いつから、耳は意味を掴む性能をもち、要約したコトバを受け取るだけのものになってしまったのだ。

なぜ、全文表記はダメだ、といえるのだ。

コミュニケーションは自由である。長々と喋るひともいれば、一言だけ喋るひともいる。顔の表情でコミュニケーションを図る場合もあるし、机を叩いて図れる場合もある。岡山弁もあれば関西弁もある。標準語もある。

あらゆる形態をしているコミュニケーションに対して、要約筆記は対応しなければいけない。なのに、要約筆記はこの形です、という決め付けをしたらどうなる?

僕は、要約がいけないとか、全文がいけないとか、言うつもりはない。意味を伝えるべきときは伝える努力をするし、表現を伝えたいときは伝える努力をする。そう、耳でありたい、と思っている。

利用者は要約筆記に何を望んでいたのか?そして何を望んでいるのか?

「通訳としての要約筆記」といえば立派なことを言っているような気がしますが、一度「通訳」というものから離れてみてはどうだろうか?今一度「耳としての要約筆記」というものを考えてみるべきだと思う。

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2009年1月20日 (火)

舌打ち

ある日派遣に行った。派遣終了後、同じメンバーから突っ込まれたことがある。

「今日、舌打ち多かったよ。パートナーがかわいそうだった。」

うーん、正直、あまり覚えていません。確かに何度か舌打ちをしたのは覚えているのだけど、「多い」といわれるぐらいしていたかどうかは、自分では分かっていない。本当に申し訳ないことをしました。(舌打ちをした、という認識がないのが一番まずいのですが)

以後、気をつけます。本当にすみませんでした。

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2009年1月11日 (日)

応援団

ある派遣現場で「応援団のエール」が行われた。

舞台上である応援団が参加者に向かってエールをおくるわけだ。エールには「フリ」と「音声」がある。フリについては、当然見れば分かるわけで問題ないのだが、問題は「音声」。

「フレー、フレー、XXX」というやつだけど、おそらく何も考えずに情報保障をすればよいと思う。ただ、自分の立場から思うと無粋なのだ。実際、音声が聞こえにくいという状況もあり、何も表示しなかった、というか出来なかった。

自分の考えから言えば、応援団のエールは一つの作品だ。映画の字幕のように事前にセリフが分かって、それをタイミングよく出さねば意味がないように思える。

では、意味がないとなると、音声を表示しなくていいのか?と突っ込まれると悩んでしまう。実はこの問題に僕と共に直面したメンバーと話をしたのだが、そのメンバーは「私が応援団団員なら、無粋なことは辞めて欲しい、というだろう」とのこと。まあ、その気持ちも分かる気がする。ただ、その考えを要約筆記利用者に受け入れろ、というのもちょっと違う気がする。

見れば分かるだろうとか、聞かなくても対したことがない、というのは結局は聞こえた上で判断していること。「聞く」という行為が出来てそれで「判断」しているわけだ。それを要約筆記者が判断するのもちょっとねーと思う。

要約筆記を「意味を伝える」という視点で考えると「応援団からのエール」で事足りるような気もする。でもコレって利用者に受け入れられるのだろうか?当り前だけど悩みは尽きない。皆さんはどう思われますか?

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